盲 信
盲信とは書いてある通り、盲のごとく信じ切ってしまう事です。
なぜこの項目を書こうと思ったのは、盲信についてしっかりとした見地で把握する,ものの捉え方、考え方を理解する必要があると思ったからです。
盲信という言葉はたいてい宗教に関することで使われます。
なぜこの言葉を使うというと、何でもかんでも理解せず、分かりもせず、そのまま鵜呑みに信じこんでしまうことで起こる事件が多いからです。
それではなぜ鵜呑みすることが悪いのかということを考えて見ましょう。
宗教の世界では、ほとんどのケースで、それぞれの解釈はあるでしょうが、経典を持っているのが常です。
そしてその経典に対して、殆んどの人が書かれている言葉を理解せずに鵜呑みにして、ただ経文という言葉を唱えているだけです。
そこに「なぜそのようにするのか?」
という疑問を差し挟むと、殆んどの人がこれで当たり前、当然だと言われます。
その経典の言葉の意味を正しく理解せず、全く疑問を差し挟むことが出来ない宗教システムになっているような感じを受けるのです。
多くの宗教関係の経典にも問題があると思います。
それは現在の私達でさえも理解が出来ない言葉が書かれているからです。
仏教では漢字ばかりで学者でないと読めませんし、学者が解説している言葉でも理解する事は不可能に近いからです。
キリスト教も~伝という人の伝達文であって、本当に正確なものかどうかは理解できません。
そしてその関係する全ての宗教関係の経典は、
本人が直接書いたものではなくて、口伝で伝わったものを文字にしているだけです。
大切な教義なのですから、誰もが理解出来る言葉で、
判断できる言葉使いで書かれる物こそが本当のものだと思います。
そうで無ければ、どうして私達が理解する事が出来るのでしょうか?
過去の人が理解しても、現在の我々が理解できなければ、それは「絵に描いた牡丹餅」と何ら変わりの無いものです。
経典のような難しい言葉が威厳と尊厳に値いする、という事が言えるのかも知れませんが、それはただ威厳・尊厳と言う範疇の見世物でしかないと思います。
その経典を「信じ実行し生きる」事で、我々が悟りへの道へと導かれるものが経典のはずです。
なぜならば経典は、それを読んだ人々を、悟りへの道である心の世界に導かなければ成らないはずだからです。
それこそ、
『人間がなぜ生まれてきて死ぬのか』が書かれている物であるはずです。
経典は「人間が如何にして生きて行くのが正しいのか」
を書かれている物のはずだからです。
それを表す物が経典である以上、訳の判らないチンプンカンプンな言葉で書かれているのなら、それは経典には値しないと結論付ける事が出来ます。
勿論この盲信は何も宗教的な事柄に対してだけではなくて、会社においては社訓というものがあります。それは歴代の社長が自ら考え、それを会社の運営上の意識として、会社をこのようにして行くんだという考えを言葉にして表したものです。
しかしこの社訓がチンプンカンプンな言葉で書かれていれば、その会社は何をどうしたら良いのか判らない、精神不安定な会社になって行くことだと思います。
ところで疑問を採り入れることが出来ないことは、個人においても会社においても本当に危険なことです。なぜならば、疑問を採り入れることは「注意を促す」 ことに通じるからです。
注意を促すには常に危機管理をしっかりとする必要があるからです。
何に対して危機管理をしなければならないのでしょうか?
私達は常に考え方の中に生きていますが、沢山の情報の中で何を信じたら良いのかが分からなくなってしまうケースもあります。
その場合に陥りやすいのが“盲信する”という行為です。
ならば、自分が理解しにくいことが目の前に起こって来た時、十分理解出来ないまま何とかして行きたいと思ってしまった精神状態で物事を判断し、その結果判断しても充分な確証を得られずに判らなくなってしまった時に、どうしても判断したい希求心が捨てきれない時、ただそれを「信ずるだけで良い」と安易に理解したときに、盲信という行為が発生するようです。
「藁をも掴む」という言葉がありますが、正にそのような状況の時に人は、何でも良いから願いを叶えたいと願うものですから、どうしても人はその時に手近にある方法で理解したい、自分のものにしたいという行動を採りがちです。
盲信の怖いところは自分で理解出来ずに、また理解しようとせずに、そのままで生きて行くことに在ります。
どんな事柄にも必ず「原因と結果」があり、そしてその形が現れるまでに時間は掛かりますが、自分が理解出来ないで行動に移したなら、その結果として理解出来ないままの形が現実化して来ます。
またしっかりと考え行動を起したなら、その考えの範疇の中で起こった事を理解する事が出来ますし、その結果が表に現実化して来ます。
勿論意外な結論が目の前に現れる事もあります。
しかし殆んどの場合には、危機管理をしっかりしていたならば、「まさかの事」も瞬間に理解する事が出来るようになります。
言葉で言うのなら、「応用が利く」という事に通じるかと思います。
盲信の怖さは、
「理解しようとする行動を採りにくくさせて行く自分を作り上げる」事にあります。
私のケースで言いますと、
私の父親は、岡山県に本部を持つ金光教の信者でありました。
若い頃に、母親の影響を受け信者になったようです。
それ以来私の家族は金光教の系列に入る事になります。
また父親は、その金光教の先生になろうとその世界に身を置いたそうです。
そしてその免状を取られたようですが、
彼は自分が娑婆(しゃば)で生きて行きたいと願ったようです。
それから多くの苦労をして、
戦争体験を経て平成の時代まで元気に商売をしました。
死ぬまでの間、本当に敬虔な金光教の信者さんだと思います。
私は父との環境の中で、
どうしてもその金光教の祝詞(のりと)に疑問を持たざるを得なかったのです。
それは、
その祝詞の意味が全く不明だったからです。
理解出来なかったからです。
「高天原にかむずまります」という言葉から始まりますが、
かむずまりますとは、神様が住んで居られますという言葉に置き換える事が出来ます。
だったら簡単な言葉で、私にも判り易い言葉で理解させてくれていたら、私はきっと金光教の信者になっていたことでしょう。
しかしそうは成れなかったのです。
何も金光教だけの問題ではなくて、
どの宗教の世界にも、同じことが言えるのです。
キリスト教にしろ、仏教にしろ、モハメット教にしろ全く同じなのです。
しかしそれに対して、殆んど疑問を持たれる方は少ないのです。
その教義をそのまま受け取り、心に疑問があっても、心に疑問を持たないように指導を受けてしまうのです。それも自然にそうなってしまいます。
なぜなら、疑問を持つ事は罪のように感じさせてしまうからです。
そして導く導師は、難しい事に対しては誤魔化します。
そして判らないというのです。導師が判らないのに、なぜ信者は理解が出来るのでしょうか?
この単純極まりない疑問を解き明かした導師は私の目の前には居ませんでした。
だから自分で道を探すしか方法が無かったのです。
そして高橋信次様に出会わなければ、私の人生は終わっていたのも同じです。
高橋信次様は私の心にこのように言われました。
「例え私の言葉が理解出来なくても良いのです。自分の心の中に一旦入れてから理解出来る部分だけを理解すればいいのです。何もかも理解できずに信じるのは盲信です。それは戒めなければならないことです」と仰りました。
私はこのような言葉を言われた事に驚き、そしてそれが本当に私に必要な言葉でした。
そしてこのような言葉を言われた人を信じても良いという気持ちになったのは事実です。
それから私は、高橋信次様の言葉を理解するように学んでいきました。
そして盲信しないように常に考えていきました。
だからこそ今の私があるんだと思います。
高橋信次様は高電工業という会社の社長様でもありましたし、教えを垂れるだけあって実践も凄い方でした。
誰にでも出来る事ですが、しかし殆んどの人はやろうとはしません。
高橋様は誰も気が付かない所で陰ながら実践されても居られた方です。
絶対に高飛車なところは無く、心から敬服するに値する魂でした。
霊導現象も物凄かったのですが
(私も何度もその現象に心を奪われてしまった者です)、
それが大切な事では全くありません。
しかし多くの方々はその霊導現象に心を奪われ、
それを見たさに講演会に来られる方も多かったのではないでしょうか?
そしてその現象が余りにも凄かったので、イカサマでは無いかと訝しく思われたのも事実です。
私は思いますが、
なぜこの時期に高橋信次様はこの様な行為を行ったのでしょうか?
ということを考えます。
どうしても宗教には真実が何であるかを追求する必要があったんだと思いますし、現実に「あの世の存在」を示さなければなりません。
しかし我々は長い間この体(body)を自分自身だと錯覚して生きてきていますから、どうしても目で見えること以外は信じられない教育を受けてきています。
だからその現実に真っ向から挑戦したと思います。
そしてそれが真実だったからだと思います。
なぜなら、「人がなぜ生まれ死ぬのか」という命題を説明するのに、「人の実体は魂であり心である」という事を証明するには、眼で確認できる現象しかなかったんだと思います。
理論だけでは不十分なので、理証、文証、現象の三つが揃って本当の教義になることを実践されたから、ここまで真実が消えずに、神理が証明されたのだと思います。
しかしその神意がはっきりとしたのは、高橋佳子様に代わってからでした。
勿論話の中身が変わってしまった訳ではありませんが、今まで高橋信次様の話を聞いてこられた一部の人にとっては、言葉の使い方や話の論点が変化してきたような錯覚を感じて、「青天の霹靂」とさえ思えるようなイメージを感じられてしまい、GLAを離れてしまった方々も多かったのは事実です。
しかしそれは間違っていた事に後で気が付かれる方も多かったのです。
この時の激烈な変化に付いて行けなかった方々も、ゆったりとした時間の流れの中で反省を通じて神意を理解して行く事になっていました。
なぜ一部の人たちは高橋佳子さんが間違っていると思われたのでしょうか?
どうしても人は、今までの環境が居心地が良ければ良いほどその環境から離れたくなくなります。
しかし高橋佳子様はそれまでの高橋信次様の言葉を引用するだけではなく、またそのままの言葉を使う事ではなく、新しい視点で同じ問題を追及するためにも言葉が新しくなって行くのは当然な形になりますし、そうされたから、それまでの言葉でしか理解できなかった人々が「まごついてしまった」という事でしょう。
それは時代が変化していけば、その環境の中で言葉は常に変化して来ますから、その変化に従って言葉も変化していくものだからです。
だからこそ、宗教界でも、新しい言葉を使って常に、教義が判り易い言葉と解釈で使われなければならないと云う事です。
盲信をする事で、自分は何もかも分かっているという錯覚をする場合が多いようです。
盲信はどうしても知識だけで「神意(神の意識)」を理解しようとします。
そしてとても大切な要素の中に、「実践」という行為が有るのですが、その意味が判らずに、「理論と理屈」だけで、頭の遊戯にしてしまうのです。
何事にも、必ず実践をしないと理解できない世界がありますね。それはどうしても人間には無くては成らない行為なのだと思います。
実践をするといってもそれ程難しくは無いのですが、いざ実践を行おうとすると、自分の心の反発があったり引きこもったり、と、どうしてもストップを掛けてしまう自分が存在している事に気が付く事もあります。
その時がチャンスなのですが、その事実をしっかりと理解して、そこから離れる事や乗り越える行為が必要に成ります。
実際に実行する時には、結構勇気が必要に成る時もありますし、謙虚さを求められたり優越感から離れてみて、素朴に生きるように求められる時もあります。勿論これらは人それぞれの心に応じた実践ですから、形的には全く同一のものは無いと断言できます。
だからこそ、ハバカル事無く実行して行けば良いだけなのです。
何も恥ずかしい事でもなく、人の目を気にする事もありません。
ただ出来なかった事があれば、出来るチャンスが訪れてきた時に、正直に実行するだけで良いのですね。
『この世で作った「心の垢」を、しっかり落としてあの世に帰るのがルール』としたら、そのルールにのっとって生きて行くのが実践・宿命かも知れません。
運命は変更することは出来ますが、宿命は変える事が出来ない。
だからこそ、自分に与えられたチャンスを自分のものにして行って、自分の心を明るく軽くして行くのもこの世に生きている魂の修行だという事が言えると思います。
高橋佳子先生は心の108つの煩悩を解明され、それを事細かく会員さんに教えられています。そしてそのルールにのっとって自分を反省し実践される方々の中から、本当に素晴らしい心(心の原点に戻って自分を理解する)を自分のものにされた人達が沢山輩出されて来ています。
盲信は「真実を理解しない自分」が妄想してしまう事かも知れません。
盲信を理解できない人は、「自分は悟った人間だ、何もかも理解できた人間だ」と、あり得ない事を信じてしまっている人達かも知れません。
自分の事を「本当の等身大で理解できない人達」なのかも知れません。
だからこそ、盲信をされた方は自分を振り返るだけの力を発揮して欲しいと考えます。
誰彼に甘えるのではなく、自分の人生だから自分の力で発見し実現して行くんだという気概も欲しいかと思います。
そのハングリー精神の中で、本当のものが見えてくるような気がします。
盲信をする事で、何も得るものは無いようです。
私も高橋信次様が仰った言葉を今でも信じていまして、一度心に問い掛けて、わかる事だけを信じて行く態勢は変化していません。
これからも盲信の危険性を実感しながら前進して行きたいと願っています。
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